「知的生活の設計」Strategy 04:まだ見ぬ誰かへの贈り物としての「情報発信」
発売に先駆けて、「知的生活の設計」の第一章を公開している記事の第四回目になります。一連の記事はこちらからどうぞ。
まだ見ぬ誰かへの贈り物としての「情報発信」
ここまで、「知的生活とは長い目で“知的な積み上げ”を楽しむこと」という話をしてきましたが、知的生活のもう一つの側面として、見出したつながりや、新しく生まれた情報を誰かに伝える「情報発信」があります。
『知的生産の技術』や『知的生活の方法』が書かれた当時は、まだ誰もがアクセスすることができるインターネットが存在していなかったため、「情報発信」については、主に学者や作家が論文や著作を発表することを念頭においた解説がされていました。
ところがいまは、誰もがパソコンやスマートフォンでいつでも、どこからでも発信を行うことができる時代です。ツイッターで意見を表明したり、議論を交わしたり、動画サイトで日常の様子を公開するなどといったことが、誰でも可能になったのです。
問題は、そうした情報発信が「知的積み上げを背景にした情報発信」であるかです。内容が知的であるかどうかではありません。積み上げの結果生まれた新しい情報を、世界にフィードバックさせているかどうかが重要になるのです。
初めての「バズる」体験がもたらしたひらめき
私がウェブにおける情報発信の本質について気づかされた体験があります。
まだブログというものが誕生して間もない頃、私はその仕組みに興味がわいて、大学の片隅で自分が管理していたパソコンにウェブサーバーと、Movable Typeというブログエンジンをインストールして運用していたことがありました。
ブログを立ち上げたはよいものの、なにを書いたものかと思った私は、当時アメリカで話題になっていた仕事術Getting Things Done(GTD)について日本には詳細な情報がないことに気づき、それについて自分なりに調べた内容を記事にしました。
当時はすでに、ホームページを開設してウェブに文章を書くということは一般的になっていましたので、私も誰がページにアクセスしたのかは自前のアクセスカウンタを作って調べる程度には気になっていました。
ある日、ふだんはせいぜい1日に10回程度のアクセスしかなかった私のブログに、急に1万回ものアクセスがやってくるという出来事がありました。アクセスされているのは、例のGTDの記事です。
どうして急にこんなことが起こったのかを調べたところ、とある有名なブログが私の記事を発見してリンクし、その読者が大挙して読みに来ているということがわかりました。
記事がSNSで発見されて「バズる」というのはいまではありふれた光景ですが、当時の私はこの初めての体験に大きく揺さぶられました。そして一瞬で、その後のすべてを決定づけるひらめきがいくつも見えてきたのです。
情報発信は贈り物である
最初のひらめきは、どんな情報がバズるのか、あらかじめ知ることは困難だという点です。
あらかじめわかっているならば誰もがそれについて発信するわけですから、書き手はその記事に人気が出るかどうかの確信もないまま、先に情報をウェブ上に置くことが必要なのです。
また、ウェブにおけるコンテンツの多くは無料で、読者を得る機会という意味では公平性があります。だからこそギブ&テイクを考えすぎて出し惜しみをしていては、他の出し惜しみをしない人に機会を奪われてしまいます。情報発信は誰に求められずともギブから始めることだということが理解できたわけです。
もう一つのひらめきは、情報は誰かに発見されることによって価値が生まれるという点でした。サーバー上に寂しく存在するデータのままではそれは存在しないも同然で、誰かがそれを発見し、他の誰かにシェアすることによって情報の価値は後付けで決まってゆくという力学が、実感として感じられたのです。
これがもし学会誌や、由緒ある雑誌に掲載されたということならば、その名声の一部分を引き受けることも可能ですが、ウェブにおいてはたとえ有名サイトに掲載された記事でも、その記事単体がシェアされ、それ自体として評価されることが多くなります。逆に、たった一つの記事から世界が変わった事例も、数多く存在するわけです。
まだツイッターもiPhoneも誕生する前に、この地平が見えてしまったことは私のその後の生き方を大きく変えてしまいました。
情報発信の「民主化」を乗りこなす
これらのひらめきをまとめると「知らない誰かへの贈り物のように情報発信をすること」という指針がみえてきます。
そのへんに転がっているありきたりなものを贈られても、それを押し付けられた側は気まずい雰囲気になるだけです。
むしろ、あなたの個人的な「知的な積み上げ」が生み出した新しい情報を、あなただけに見えている世界を、親しい人への手紙がそうであるように、求められる前に先に発信することによって情報発信は贈り物になります。
これは実際的な利点のある戦略でもあります。ジャーナリストのクレイ・シャーキーは『みんな集まれ! ネットワークが世界を動かす』(筑摩書房)のなかで、従来の「作家」や「ジャーナリスト」といった肩書きが、出版できる人や取材対象へのアクセスが許された人々が少数であるという前提の上に成り立っているかりそめのものであることを指摘しています。
出版の仕組みがブログやソーシャルメディアといった形で普遍化し、取材方法が多様化すれば、誰にでも作家やジャーナリスト的な役割を演ずることが可能になり、その情報の価値は内容によって評価されることになるわけです。このように情報の発信に対する参入障壁が下がっている状態を、情報や出版の「民主化」(democratization)などと言ったりします。
この状況は大学の研究室に在籍しているわけでも、著名な出版社から本や作品を発表しているわけではない、私たち一個人に大きなチャンスを与えてくれます。自分の発見や考えを発信することを通して、たった一人の知的生活の成果を世に問うことが可能になっているのです。
しかしまずは、贈り物のように、見返りを期待することなくギブするところから始めなければいけません。
贈り物を受け取った側はどのような反応をするでしょうか? どのようにしてそれは受け止められるでしょうか? それは前もってはわかりません。
しかしそれが運良く誰かのもとに新たな刺激として伝わるなら、知的な積み上げは、贈り物のような発信を通して一つの閉じた円環のようになり、どこかの誰かの、次の積み上げに役立っていきます。
また、その発信に対する応答が結果的に想像もしなかった場所から返ってきてあなたを驚かせることもあるでしょう。
これほど痛快なことも、なかなかないとは思いませんか。