どうしても自分を変えられない:自己変革を妨げる「私」のなかの「私たち」
First Person Plural | the Atlantic
「この仕事をやっつけてすっきりしよう」「でもつらいから、ちょっとだけさぼろうよ…」と、天使と悪魔が両肩で私の良心を巡る戦いを演じている…というと古典的な表現でしょうか。
しかしこの天使と悪魔は、実は二人だけではなくて数十人の大部隊かもしれないという話題が the Atlantic に紹介されています。
私たちは「自我」というと、今日も明日も「私」という一人の人が持続して存在していると考えます。しかし最近の心理学の研究で、より現実的にはいくつもの「あれをしよう」「いや、これをしよう」と争う異なる自我の不安定なコンポジット(合成)が、いわゆる「私」という自我の本質なのではないかという学説が提示されているという話題です。
Many researchers now believe, to varying degrees, that each of us is a community of competing selves, with the happiness of one often causing the misery of another.
多少の意見の差はあるにせよ、多くの研究者らの間では次のような説が支持されるようになってきている。すなわち私たち一人一人は、内的に競争状態にある「コミュニティー」のような成り立ちをしており、ある「私」の幸せが、残りの「私」の犠牲の上で成り立っているのだという説である。
たとえば「仕事の前にちょっと動画サイトを見て息抜きをしよう」と5分間の楽しみを1時間の集中した仕事に対して優先させてしまった「私」と、「これから集中して仕事をしよう」と考えていた「私」とは、同じ記憶と肉体というベースを持ちながらも互いに争う異なる人格かもしれないのです。
また、悪い友人たちといっしょにいるときの「自分」と、おばあちゃんの前にいる「自分」とは性格も若干異なる傾向が見いだされるということも指摘されていて、私たちは常にシチュエーションにあわせて生成される「短期的な自分」がその場その場の覇権を握ろうと脳内で争っている状態だというわけです。
これをどのように統御して、自己変革に活かせるのでしょうか?
「未来への声」に耳をすます
「今」という瞬間にも私たちの中にはさまざまな「私」が、この瞬間をどのように使おうかと争っています。
問題なのは、「仕事をさぼりたい」「今日は勉強をやめよう」「なんだかやる気がなくなってきた」と言っている「自分」は数年後、十年後の自分に対して責任を感じることができないという点です。それはそうでしょう。だって「今の私」は「10年後の私」とは違う人間で、なんで10年後の私のために、今の私が我慢しなければいけないのか、という心理に陥るからです。
でも社会でも勝手に振る舞う人が、法律や、道徳によって規律へと縛られるのと同じように、私たちも「多くの私たち」を一つの基準で縛り付けることで、統制をとることができます。
この場合、「長期的な視点」をもっている自分の方が、より刹那的な自分の声よりも理性的で、より多くのメリットをもたらします。しかしそうした理性的な「私」の声は、より短期的で声の大きい「私」を前にして常に劣勢の戦いを演じしまいますので、記事では短期的な活動を制限する仕組みづくりを推薦しています。たとえば大事な仕事をしている最中にネットを遮断するツールを使い、あえて自分を制限するといった、「今の自分」を遮断する考え方です。
たとえば朝仕事をするときにその場で考えたことをするのではなく、前日に ToDo リストに書かれた行動しかしないことや、全ての行動を手帳に書いてから実行するといった行動もこうした束縛として機能します。「今の自分」を信じずに、むしろ「長期的な視点にたった自分」が書き下ろしたルールに従うことで刹那的な行動を封じる訳です。
もっとも、「長期的な視点をもった自分」が常に正しいという保証もないので、「今」と「未来」とのバランスをとることが必要だとも、記事では説いています。
なんだかこの学説は自分がときどき頭のなかに7賢人を招いて開いている「バーチャル・マスターマインド同盟」に似たところがあって、面白いと思いました。あるいは、ずいぶん前に紹介したジンメルの社会学にも通じる点があって興味深いです。
「あなた」は今日どの「自分」の声をきいて行動していますか? その声が目指しているのは刹那的な「今」なのか、それともまだ見ぬ「未来」ですか?
元記事はもっと長大で、心理学的に興味深い話題がたくさん紹介されていますので、ちょっと学問の秋にひたりたい方はぜひご一読ください。