PV至上主義から脱するには「読まれない記事」を大切にすること

タイトルからしていろいろと誤解を受けそうな話題ですが、これはとても狭い、どちらかというと個人的な経験則のようなものを覚え書きとして書いています。

昨今、偽ニュース問題や、キュレーションメディア問題といったような、情報の価値に疑いを抱かせる話題が相次いでいます。その都度スルーするのが難しい炎上商法もその一種です。

その根底には、1クリックは、どんな形でも1クリックであること、それが悪名であっても、騙して得たものであっても、1PV(ページビュー)は1PVというウェブの仕組があります。

「PV至上主義」というのは、ブログやウェブメディアへのアクセスを優先しすぎた結果、読者よりも Google の検索ロボット向けに最適化したコンテンツ作りをしたり、人を怒らせたり騒ぎを起こして注目を集めることでアクセスを集めたりすることを指す言葉だと思ってください。

そしていうまでもなく、この誘惑は、知的生産にとっては諸刃の剣なのです。## アクセスと、読まれることのあいだに

自分の書いた文章を広く読んでほしいと思うことは自然です。そして一般的には多くの人が読んでいるものほど価値があるというのは、経験則として合っているでしょう。

しかし、先ほどの「1クリックはどんな形でも1クリックである」という部分がネックとなって、読まれることがアクセスされることに取って代わられるところに、罠があります。

アクセスされることと、真に読者によって文章が読まれることとは違います。「読み」というものが、書かれたものへの共感と理解を意味するならなおのこと、その乖離は大きくなります。読まれることを望んでいたのに、アクセスされることが目的になってしまうと、その落差の分だけなにかが失われるのです。

このあたりに、情報発信やバズと、知的生産の差異があります。

発信するだけならば、ネタを選び、検索ワードを選び、ウケを狙い、最適化をして、量をかせぎ、インパクトを強め、より強い刺激と、より大きな声を求めることが求められる側面があります。

でも発信とともに、知的生産、情報になにかが付加されて新しい情報が生み出されているなにかをしたいのであれば、ここにはバランスが必要になるのです。

それは声の深みを伝える技術とでもいうもので、アクセスしやすくする過程で失われてしまうものを手放さない頑迷さが重要になります。

私は、前者の程度が低くて、後者が高尚だと言ってるわけではありません。言葉とその伝え方は相補的に選ばざるをえないという話をしているつもりです。

とてもざっくりと説明するなら、コンテンツの意味内容とインパクトと検索性が独立してあったとして、そのうち二つをとることはできても、三つとも狙えることは稀有だということです。

読まれない記事を大事にする

そこで、もしブログを書いたり、コンテンツを生み出す中で、自分にしか付加できない個性のようなものを盛り込むことを選んだときには、それは必然的により狭い読者を対象とすることになります。

それは、読まれない記事の価値を模索する態度といってもいいでしょう。

しかしこうした「読まれない記事」がその人の生み出すコンテンツのもっとも個性的な部分を形成していることだってあるのです。

このことについては、もう8年ほどまえに、いしたにさんのブロガーウォッチングの連載でお話した内容と今も変わりがありません。

堀 でも、いったんある程度の読者のツボをつかんだら、そこからさらに「広く」するのではなく、「狭く」絞っていくことも重要だと考えています。実は最近、私はなんとか読者層を狭めようと気を遣っているんですよ。

いしたに 狭めよう、と?(笑)

堀 はい。自分の文体が非常に硬質なので、それをかえってブランドとして利用して、「自分の考え」と「自分の文体」で差別化したいと考えています。「Jack of all trades, master of none」(多芸は無芸)という英語の慣用句みたいに、「すべての人」に向けて書くと、かえって誰も聞いてくれない気がするんですよ。

いしたに そうだと思います、企業ブログだと「とにかく広く、たくさんの人に」ということにフォーカスが当たりがちなんですが、すべての人に企業が顔を向ける必要なんかないわけです。また、狭いところ向けに書くと、意外に広くの人に受けたりするんですよね。

もし、ブログやウェブメディアを運営する目的が短期的にアクセスを集めて収益性を高めることにあるのなら(そしてそれは目的として十分アリなのですが)読者を狭めることは自分の首を絞めることになります。

しかし目的が、自分に書けるテーマの模索、自分らしい批評や評論のあり方の検討、あるいは中長期的なアウトプットによる成長であるなら、この「狭める」というあり方はむしろ必然になります。そこに、他の人との違いがある可能性が最も高いのですから。

すると、「読まれない記事」においてどれだけ自分らしさを盛り込むことができたか? まったく読まれていないのではなくて、読むべき人に届いているのか? という視点での自己反省が成長へのヒントとなります。

ただのアクセスではなく、読まれる記事を。ただ読まれるのではなく、それが手紙のように親密なものとして届くこと。

素早く、インパクトのある発信にはもちろん価値があります。しかしそれがもたらしたスパムと偽ニュースと、信頼されないパンチの軽いメディアとは別に目指すことができる世界もあるのです。

これだけ加速した世界だからこそ、ゆっくりとした発信の味わい。これもまた、今後しだいに、でもじわじわと効いてくるのではないかと思うのです。

[ 「ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である」 (技術評論社)

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。