理不尽な思い込みを論理的に治してゆく「自己変革の心理学」
たとえば公認会計士になりたくて資格取得に向けて努力している人がいたとします。この人が「公認会計士になりたい、だからもっと勉強しよう」という考えるのと、「公認会計士になりたい。なれないなら、自分はダメだ」と考える場合とでは何が違うのでしょうか?
それは後者に非論理的な思いこみ、イラショナル・ビリーフが存在する点だと、伊藤順康氏は著書、「自己変革の心理学」のなかで説いています。ちょっと前の本ですが、最近読んで実用的な心理学だと感銘を受けたのでご紹介します。
イラショナル・ビリーフとは
イラショナル・ビリーフとは、上の例で言うなら「資格をとれない → 自分はダメ」という非論理的な飛躍のことを指す言葉です。
現実的に考えるなら「資格をとれない」のあとに続く言葉は「残念だが、世界の終わりではない」、「もう一度がんばろう」、「この経験を他のことに活かそう」といったものであってもかまわないのですが、選択的に心の中で「自分はダメ」という文を繰り返している場合に、そうしたゆがんだマインドフレームが逆にそれを生み出した心自体を蝕んでしまう、というのがこの本の最も重要な論点です。
上の例はわかりやすいですが、次の場合はどうでしょう。人から批判をされた場合に腹を立てることは多いと思いますが、この不快感はどこから生まれるのでしょうか?
「批判」→「怒り」
と直結していると思う人は多いと思うのですが、著者はこの二つの間にも一種のビリーフが入り込んでいる場合があると指摘しています。すなわち、
「批判」→(人は私に批判をいうべきではない)→「怒り」
という図式です。真ん中に入っているのが、心が自分に言い聞かせているビリーフです。実際には批判を 100% 免れうるほど完璧な人なんていないのですから、この考えは非論理的だと著者は指摘しています。
ここで注意したいのは、何も聖人のように批判されてもすましているのが健全だと言うのではなく、批判が当たっているなら真摯に反省し、批判が的外れならそれを指摘するという選択肢があるにも関わらず、その論理的なステップを踏まずに「怒り」に直行している場合は要注意だという話です。
こうした場合には、こうした心の内的独白が影をおとしていることが多いのだそうです。著者は論理療法という考え方から、まさしくこの心の中の声をハックしていく方法を紹介しています。
心の中の言葉を変える
伝統的な心理学ではまず外的な要因(批判)があって、それに対する心理的リアクション(怒り)が自動的に起こると考えます。しかし論理療法的な考え方では、私たちは批判される前から「批判されたら怒ろう」という内的なルールの文章を作り上げていて、実際に批判があったらそのルールに従っているだけなのだという考え方をしています。
ですので、もし修正したい心理的なクセがあるなら、「批判されてもそれが自分の終わりではない」、「批判されても、笑顔を返してみる」、「批判されたら、まず10秒考えてみる」といった異なるルールを意識的に投入して、心に根付いている負のルールを書き換えることをします。
これはまさしく「7つの習慣」の第一の習慣「主体的になる」の章で書かれている「外的要因とそれに対するリアクションとの間のスキマ」という話につながっています。しばらく前に、「言葉の力で自分を変える -言霊ハック-」で紹介したものとも一致していますね。
本ではこれ以外にもさまざまなイラショナル・ビリーフが暴露されていて、自分の思考のゆがみや、思考の選択の幅が広げるヒントになりました。
また、本ではあまり紹介されていませんが、このテクニックは負のビリーフを打ち消すだけでなく、正のビリーフを植え付けるためにも使えます。そうした視点で読んでいただくとさらに良いと思います。
「ささやくんだよ、私のゴーストが」と言えるようになるまで、どれだけハックすればいいのでしょう?