「自分って誰だっけ?」時間貧乏が生み出す自我の危機

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明日から1週間の予定でアメリカ東海岸の某大学に出張で行って参ります。目的はもちろん、あの一流の研究者の師匠に会いにいくためです。

出張自体は仕事です。こなすべき業務にセミナー、とりつけるべき合意や相談事がたくさんありますが、それでも出張はどこか「休暇」のような開放感があります。

それはふだんの職場と机、そして視点からも解放されて、自分を客観視できるからではないでしょうか?

Slow down now blog で「時間の貧困状態」についての本を紹介している記事があり、「休暇」あるいは「ふだんの場所から離れること」ことをしないと心がどんな状態におちいってゆくかが明快に書かれていて興味深く読みました。

それは単に「リラックスができない」というだけにとどまらない深刻な状態を生み出しているのだということです。抄訳でお届けします。

「仕事から離れられない」ことが生み出す飢餓状態

休暇をとらない、自分だけの時間をとらないことは単にリラックスができないことにとどまらず、「ある種の貧困状態を作り出す」と記事では紹介されています。たとえ高い生産性を維持して調子良くやっていたとしても、これらは水面下で進行します。

その「症状」とは:

  1. 自己開発の欠如: 自分の興味や能力を開発するための時間がないと「現在もっているもの」「現在もっている興味」だけで生きる受動的な状態に陥りやすくなってゆく。

  2. 自己分析の欠如: 束縛された状態からあまりに長く抜け出していないと、しだいに「自分」なるものが失われていき、そのかわりに周囲と帳尻をあわせているだけの、不満足な自分がその場所を埋めていきます。

  3. 視野の狭い競争関係を強いられる: 価値の軸が単一だと「あの人に比べて評価が、年収が低い」というような単調な競争関係の中で苦しむ事が多くなります。

  4. 価値観の混乱: 上と似ていますが、自分を測るための尺度の目盛りが混乱してしまうことを指しています。たとえば「年収100億円以下の人は負け組」というような目盛りは馬鹿げていますが、「1000万円」「500万円」だったらどうでしょう? 数字はどうあれ、この目盛りを受け入れた時点で私たちはこの目盛りに対して自分を測る事になります。健全な目標意識の目盛りならいいのですが、目盛りの混乱は無用な、変な飢餓状態を生み出します。「ああ、MacBook Air をトイレも含めて部屋に一台ずつ置いておけない自分はなんて不幸なんだ!」(笑)

怖いですね…。これらが極度に進行すると、周囲の期待や社会的役割に応えるだけの自動人形みたいになってしまい、「自分ってどんな人間だっけ?」という疑問にすら答えられなくなりそうです。

記事は時間に余裕を持つ事の重要性について書かれていたものですが、研究者である私にとっては自分の組織を抜け出して別の場所を見に行くのも同様の症状をおさえる効果をもっている気がします。

  • 「自分はいまどこに立っているのだろう?」

  • 「次にやろうとしていることは、他の人からみてどんな重要性をもっているのだろう?」

  • 「自分はこの論文をだそうと必死になっているけど、それってそんなに大事な事だっけ?」

自分にとって出張がいつも開放的なのは、こうした**「自分と向き合う時間」が強制的に目の前に広がるから**でもあります。

最近何か張り合いがなくなってきた…という場合は、たとえ旅行にいけなくても、別の道や手段で帰宅する、食事をちょっと遠出してとってみる、いつも見ているテレビやインターネットを3日休んでみるといった「小さな変化」が有効かもしれません。小さな変化が、牢獄にひびを入れる可能性があるからです。

さて、とはいえ今回の相手は「超」一流の研究者たちが集う有名研究所。私は無名の人。あんまりやられ過ぎて落ち武者にならないように、気をつけて行ってきます。

(p.s.)

いつものことですが、Lifehacking.jp は私の不在のあいだオートパイロットで動作しています(Wordpress の時差投稿万歳!)。時差の彼方から確認するようにはしますが、コメント承認が遅れるかも知れません。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。