古典を読むのは「役に立つから」ではない
「読んでいると恥ずかしい」が恥ずかしい | Polar Bear Blog
Polar Bear Blog さんの「古典を避けて通るのはもったいない」という記事を読んでいて、私は自分の恥ずかしい秘密について考えていました。
いま、この記事を書いている書斎には4つの本棚を埋め尽くしている本があり、特に机の右側の本棚には何百という岩波文庫、講談社学術文庫がおさめられています。テーマは哲学、西洋文学、神話・宗教学・民俗学の本など、およそ自分の研究とは関係のない本ばかり。数にして数千冊。ちょっとしたコレクションになっています。
この本棚をみて、たいていの学生さんは「すごいなあ」と言ってくれますが、なかなか告白できない秘密があります。それは、僕はここにある本の大半を読破してはいないという事実です。
自己顕示欲から、真の知識欲へ
これらの本は学生時代のころ、読む以上のスピードで食費を削りながら買ったものですが、どうしてそこまで本を買っていたかというのは知識欲というよりも、「自分は他人とは違うのさ」というちっぽけな自己顕示欲を満足させるためのものだったような気がします。
年月が過ぎ、突っ張っていた性格もおさまってくるに従って、自分の書斎は今度は逆に「自分がいかに何もしらないか」を証だてる場所になってしまいました。私は「古典」に囲まれて暮らしていますが、私自身は「古典」から遠く離れています。毎日、それを意識しない日はありません。
しかし結局のところ、それらを買い集め、手放さずに苦労して引っ越しのたびに運んでいたのは、良い結果をもたらしました。読んでいないあこがれの本を前にして、自分はしだいに手つかずのこの地平に足跡をつけたいと思うようになっていったからです。
置いてある本のうち、読破していないものは全体の 60% にもなります。それをゆっくり、一冊ずつものにしてゆく楽しみ。それが、新たに発見した自分の本棚との、おそらく一生続く付き合いです。
その心境を、イタロ・カルヴィーノのそのものズバリの題名の本「なぜ古典を読むのか」の前書きが代弁してくれていて、感激したことがあります。
この前書きは「古典とは何か」という問いに対していくつもの答えを示していて興味深く読む事ができます。しかしなんといっても心を奪われるのはその前書きの最後の部分、思想家エミール・シオランを引用しているところです。ちょっと長いですが抜粋します。
私たちが古典を読むのは、それがなにかに「役立つから」ではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだ方がいいから、だ。
わざわざ苦労して読む事もなかろう、といって反対する人がいたら、シオランから引用する。「毒人参が準備されるあいだ、ソクラテスはフルートで一つの曲を練習していた。『いまさらなんの役に立つのか?』とある人が訪ねた。答えは『死ぬまでにこの曲を習いたいのだ』」 若いときの自分は、このフルートのへたくそなソクラテスのようなものでした。そして今のペースでいくと、死ぬ時もきっと習いながら死ぬのだろうということは、目に見えています。
でも**「習うこと」や少しずつでも読んでいる事自体が、「全ての本を読んでしまった」という状態よりもすばらしい事**なのだと、今は言える気がします。新しい本に挑戦してそれを読めたとき、私の人生には成長があると言えるからです。
さて、今日の眠る前の友達はどの一冊にするか…。