一周回っての "Making things for the Web" という生き方
ちょっと長いですが、昔話からはじめて一周戻ってくる話をしたいと思います。
その昔、ウェブに情報発信をすることがホームページを作ることであったり、黎明期のブログに書き込むことや、掲示板に書き込むことだったりした頃は、タイトルをどのように書いてキーワードをどの場所に入れれば検索流入が増えるか、より多くシェアされるかという視点はありませんでした。
情報の発見が手動や偶然や伝聞に依存していたからこそ、RSSを駆使してウェブを丹念にウォッチするのが効率よかったですし、いまはもうサービスを終了したStumbleUponといったサービスが利用されましたし、ブログの記事に言及されたことが元記事にさかのぼって表示されるトラックバックといった機能がとても便利だったわけです。
しかし情報の流通量が膨大になり、よりリアルタイムになるにつれて、そうした記事の伝播のしかたはとても効率悪いものになってしまいました。情報を求めている側の手間とスピードを考えるならば、検索とSNSが情報の流路を支配するようになるのは自然です。
そして情報の流路に対する決定力が自分の外側にある以上、コンテンツを作る側も自然に検索とバズに向けて自身の発信を最適化するようになったわけです。
ちょっとまわりくどいですが、このさきに起こった出来事を拾い集めていきましょう。
PVの魔力と、画一的になるコンテンツたち
いうまでもなく、検索の分野を独占するGoogleのビジネスモデルは「情報の整理」に対して広告を結びつけることによって、情報の流通そのものを収益にするというものです。そしてAdSenseのような仕組みは、コンテンツの価値の尺度を内容そのものではなく、PVへとシフトすることにつながりました。
なにもこれは悪い話ではなく、コンテンツの発見が手動と偶然と伝聞だったときに比べて発見の可能性がスケールするようになったのですから、情報発信者にとっては革命的でした。
しかしこの仕組がいささか強すぎるために、コンテンツの尺度がPV中心になってしまった結果、コンテンツの作り方自体が人間のためというよりは、検索エンジンに向けたものに変化するという副作用をも生み出しました。
SNSによるバズやシェアを狙うコンテンツ作りも、落とし所が共感の最大化ではなくPVの最大化になる以上、炎上マーケティングや、耳目を奪う極論といったものが増えることへの免疫は弱い面があります。最近だと「エモい」書き方で共感を生み出す手法が注目されていますが、最終的な評価はエモさそのものではなく、それが生み出すシェアとPVで測られていることは見逃せません。
もちろん例外は多々ありますし、すべてのコンテンツがそうしたPV至上主義的な流れによって骨抜きにされているわけではないものの、どうしても収益への変換はPVという指標でおこなわなければいけない事情が重力の井戸のようになってコンテンツのありかた、作り方を支配しがちになります。
書かれたり生み出されたりするものが、その刺激においても、過剰さにおいても、どこか似ていると思ったことはないでしょうか。情報の流通しかたが画一的になると、騒がしい話題もすべてがどこかで似ていて、炎上もどこかで聞いたような話の繰り返しになりがちです。
刺激において画一的な世界が(すべてとはいわずとも)蔓延するのが、コンテンツの価値を外的な尺度に置き換えた世界の自然な帰結といってもいいでしょう。
アプリとメディアとSNSの境界線でセグメント化されるウェブ
そのあとに起こったのはウェブがSNSとメディアで多様化するという流れでした。見方によっては分断化しているともいえます。
Facebookはいいねによって駆動された箱庭のような第二のインターネットを人と人のつながりをベースに構築していますし、YouTubeは動画の、インスタグラムは画像のといったように、それぞれの場所で似たような状況になっています。
ツイッターに投稿するだけではFacebookには波及しませんし、YouTubeでの知名度やバズはインスタグラムのそれにはつながりません。「若い人はいまどこにいる?」「いま一番バズっているのはどのSNS?」といったようなことが気になるのも、すべてを同じ強度で展開できる人や企業は少ないからですし、オールラウンドに数をもっている「インフルエンサー」に注目が集まるのも自然な流れになります。
繰り返しますが、なにもこれは悪いことではなく、ウェブ上で動画も写真も音声もライブもなんでもできるようになったからこそ、自然に起こっていることです。
しかし同じ現象を別のとらえかたをすると、一人の人間が触れたり制御できるスケールをもう越えてしまったという具合にも言えます。ホームページを書いていただけの頃から、なんて遠くまで来たのか!
届くべき人に届くことの最大化へ
ちょうど一年ほど前に、ここまでの話題についてはブログというメディアの継続的な衰退と、プラットフォームにむけて書くのでいいのか? という問題として記事を書きました。
死に続けるブログと「どこに書けばいいのか問題」| Medium
それから一年間たって、一つの変化が感じられるようになってきました。具体的な証拠を数字であげられるようなものではなく、風向きが変わる前の凪の状態、潮目が変わる場所の淀みのようなものが見えている気がするといった程度の印象論であることをお許しください。
でもここ数年数をもっていたウェブメディアやインフルエンサーのツイートのRT数や、誰が反応しているのかといった観測、フォロワー数の推移といった数字はみたうえでそのモンタージュとして感じ取っていると思っていただければと思います。数字が明らかになることにはもう変化は終わっている類の話です。
たとえばインスタグラムにおいては、インフルエンサーがすべての情報やPRといったものを回せるわけがありませんので、特定分野に強いマイクロインフルエンサーへの注目が2018年に高まっており、その状況は2019年になっても持続するものと見られています。
日本ではnoteのようなプラットフォームに人が集まり、SNSのような開いたネットワークのなかでのバズの勢いはまだまだ強いとはいえ、話題の起点としてのゆるやかに閉じたネットワークの力も無視できません。
そして、Medium や Facebook にむけてコンテンツを発行する流れに逆行して、小さなコミュニティやファンに対して共鳴する話題をコントロールできるサイトで生み出してゆく流れも見え始めています。たとえば人気ウェブサービスであるBasecampの開発元が運営している人気ブログSignal v NoiseがMediumを離れたという話題があります。
この記事には示唆に富む文章がいくつかあって、中央集権的にコンテンツを回すことが自分らのファンにとって必ずしも有益ではないと考えていることがみえてきます。
Traditional blogs might have swung out of favor, as we all discovered the benefits of social media and aggregating platforms, but we think they’re about to swing back in style, as we all discover the real costs and problems brought by such centralization.
ソーシャルメディアとコンテンツ・アグリゲーション・プラットフォームの利点によってブログはもう時代遅れになったようにも思えるが、そうした中央集権化の弊害が見えてくるにつれて、もう一度揺り戻しがあると思える。
ここでいう弊害は、たとえばMediumが収益化のためにプレミアムユーザー向けのコンテンツに注力する流れのなかで単に「ファンとつながる」ことを目的としていた SvNが取り残されたこともさしていますし、ツイッターのようなSNSがやはり自身の収益の最大化のためにタイムラインの順序をアルゴリズムで制御するようになった流れなども含みます。
Writing for us is not a business, in any direct sense of the word. We write because we have something to say, not to make money off page views, advertisements, or subscriptions.
記事を書くのはわたしたちにとって直接のビジネスではない。私たちはいいたいことがあるから書くのであって、PVをお金に変えたいわけでも広告があるわけでもサブスクリプションを売りたいわけでもない。
すべての人がPVのはてに広告料を欲しているのではなく、その先に別のものをみているひとにとっては、ようやくツイッターやFacebookやMediumやnoteやYouTubeやインスタグラムに必ずしもいなくても、つながりたい人たちとつながるための手段は多くなっているという自信が、この文章にはみえます。
まだまだすべての場所でこうした動きが見えるわけではありませんが、Googleの検索第一ページに載らないとアクセスしてもらえない、バズらなければ話題がそもそも見つからないという状況の先にある、探しているものはさまざまな手段でいずれは届くという時代が見えている気がするのです。
届くべき人に届かせるための手段や下地は十分にできたということなのかもしれません。
次の一周に向けた、Making things for the Web
そこで、話は大きく円を描いて、元の場所に戻ってきます。でも、完全に元の場所に戻ったのではなく、ほんの少しだけ前進して、次の一周が始まります。
その昔、欧米のブロガーやプログラマーのプロフィールには “I make things for the (web | internet)” という文句がよく見られました。これは文章であれ、アプリやプログラムのパッチであれ写真であれ、誰が受け取るのかを気にせずウェブに向かって好きなものを解き放つという意味合いがありました。
そこにコンテンツや素材をおいておけば、記事はだれかに引用されて、情報の流れはトラックバックで源に還り、異なるものがマッシュアップされて別のものとなって元ネタを凌駕しながら広がってゆく世界観。
そうした人々や動きはこれまでも消えたことはありませんでしたし、彼らの贈り物は常にウェブを楽しい方向に動かしてきましたが、時代のインセンティブはむしろ彼らと逆行していた7-8年だったような気がします。
しかし、話題が必ずしもバズらなくてもよく、マイクロインフルエンサー的な形でスケールするのなら、特定のジャンルの小さな一角についてしか語らない人の言葉もそれが届くべき場所に届くフェーズがもう一度来るはずです。
それがたとえばハッシュタグ・マーケティングの細分化の果てにやってくるのか、あるいは個人サイトへの再注目という形でくるのかといった、技術的な原動力はいまいちまだ見えていないのですが、こうした動きを肌で感じ取ることはできるはずです。
https://en.blog.wordpress.com/2019/01/14/newspack-by-wordpress-com/
たとえばGoogleとWordpressがともに作ろうとしているNewpackというCMSも中小規模のメディア会社のコンテンツをFacebookなどのサイロに隷属させるのではなく、ウェブの中に島のように存在しつつ、特定のマイクロコミュニティに発見されやすくなる効果を生み出すかもしれません。
The Correspondent - Unbreaking News
対立をあおるばかりで情報にコンテキストを与えない現在のニュースサイトの限界を乗り越えるためにコミュニティで作るニュースメディアを目指して250万ドルのクラウドファンディングに成功した The Correspondent (私も出資しています)も、ニュースの流通のあり方を変えねばというユーザーの意志の現れだと思えます。
個人ブログ書いていたり、個人的に情報と触れ合うことを楽しんでいる個人はどのようにすべきでしょうか?
きっと答えはもう前回の周回から変わっておらず、好きなことを、興味のあることを、人に伝えたいと思っていることを、ウェブにストックとして置くことの真価が、これまで通り、そしてこれまで以上に評価されるようになる気がしています。ポジショントークかな。ちょっとそれはあるかもしれません(笑)。
しかしさまざまな中央集権化によって回すことができる以上に情報が増えた時代において、手の届く範囲のマイクロコミュニティへと回帰するのはいわば必然だともいえます。
そうした次の一周に向けて、そしてその次の一周に向けて、私たちが続けてゆく情報との付き合いかたと発信の戦略はずっと変わらないのです。ならば私は自信をもって、これまでどおりペンを握って、呼びかけに対して返事をしたいと思います。
I make things for the Web!
(参考リンク:The Oatmeal “Some thoughts and musings about making things for the web”)