変化のない、普通の人生を生きているのではないかという恐怖
とりたててなんの不自由もないのに、自分の人生が思っていたのとは違う、普通で、面白みのない、とるにたらないものに思えてくる焦燥感を感じたことがあるでしょうか。
世界中で生きるか死ぬかの闘争を繰り広げているあまりにも大勢の人には申し訳ないのですが、そんな贅沢でわがままな、それでいて感じている当人にとっては心のなかに砂漠が広がるような物足りない感覚。
いまのところ対応する単語がない感情に新しい言葉を与えている The Dictionary of Obscure Sorrowsという YouTubeチャンネルで、そうした空虚感に対する造語、Kinophobia を説明する動画がありました。
そしてそれが、みせかけの人生と、本当の人生について考えさせるものだったのです。
普通すぎる人生を生きているのではないかという恐怖
Kinophobia とはギリシャ語の koinos、すなわち普通で、特別なところがないという言葉に phobia、すなわち恐怖という言葉を加えた造語です。そしてこの感覚に、それなりに多くの人が思い当たるところがあるのではないでしょうか。
動画では静かなモノローグで、人生をふりかえったときに、それぞれの瞬間は楽しく、なにか意義のあることをしていたように思えるのに、それを全体としてとらえたときにそれが急に矮小化して、つまらないように思える焦りの感覚を解説しています。
「もっとなにかできたことがあったのではないか」「もっと素晴らしい人生を生きられたのではないか」そうした焦りにとりつかれたとき、人は自分の人生から自分を遠ざけ始めます。
You may adore the life you have, for everything it is. You know it isn’t groundbreaking; you wouldn’t change a thing. Maybe when you first started building the life you wanted, you left plenty of room for what might happen, and somehow lost sight of what was happening.
あなたは自分の人生を愛しているかもしれない。しかしそれがなにか大きな変革をもたらすものではないと知っている。あなたは何も変えることはしなかったのだ。ひょっとすると、あなたは人生を歩み始めた時、未来にこのようなことが起きれば良いなとあまりに多くのことを保留するあまりに、いまそこで起こっていることに対して盲目だったのかもしれない。
Or maybe you were never ‘in it’ to begin with. Maybe you knew even then that this wasn’t the world you expected. A world so low and common you tried to keep your distance, floating somewhere above it, where nobody else could look down on this life you built. Nobody else but you.
あるいはそもそも、あなたは人生に本気で取り組んでいなかったのかもしれない。期待はずれに終わるであろうこの世界が自分のほんとうの場所ではないと、最初から見切りをつけていたのかもしれない。小さくて、普通すぎるこの世界に対して距離をおいて、どこか他人事のように自分の人生のうえを浮遊して見下ろしているのかもしれない。誰からも、見下されなくていいように。
完璧な人生という誤謬
Kinophobia は辞書にのっていない単語かもしれません。でもそれを感じる時の感覚はわかりますし、それにとりつかれているひとをみかけることもしばしばです。
自分のいまいる場所が本当に居るべき場所ではないのかもしれないと不安になるとき、ときとして周囲のひとに自分の優位性や、もっている肩書、稼いだお金、なけなしの才能を主張して「私はあなたより面白い人生を生きている」と言いたくなる気持ちに駆られる感情は理解できますし、そうしたことを実際に口にしてしまっている人もみかけます。それを口にしたところで、心のなかの寂しさは減らないのですが。
ここには、人生はそのときそのときの意味の重々しさを足しあわせて、それが多くなれば多くなるほどあとで満足が大きくなるという暗黙の思い込みが働いています。そして理想の完璧な人生という幻想を追うあまりに現実への焦点があわなくなる的はずれさもそこにはあります。
もちろんあとになって後悔する間違いや、不幸なできごとは少ないほうがよいでしょう。しかしそれも含めて、記憶し、引き受けることができるのはあなた一人なのです。
そうして考えると Kinophobia とは人生において大切なことを取り違えたために生じている道に迷った感覚に似ているのかもしれません。振ったサイコロの出なかった目が気になるあまりに、いま出ている目がみえなくなっているような。
そしてそれを振り払うには、他人事のように、間違えて始めてしまってリセットを待っているゲームのように、自分の人生を遠ざけて考えるのではなく、実は人生の一番幸せで偉大な瞬間は日常の一瞬一瞬に埋め込まれているのだと信じるしかないのかもしれません。
他人の人生はそのひとの偉大な瞬間や、おこなった徳行で量ることができます。しかし自分の人生は? それは日常の小さなしあわせ、与えることができたささやかな笑顔、交わすことのできた会話、通じあった心。そうした、自分にしかわからないものでしか量れないのでしょう。
それならば、つらくとも、まるでゲームのリセットを待っているように浮遊している場合ではないのです。