ブログ論と、芸と、測定不能なもっとも大切なものについて
一番大切なことは、意外に測定できない。すくなくとも、数字に置き換えることができないことが多い。
Seth Godinのブログに、“Measure what you care about (re: the big sign over your desk)”という記事が登場していて、まさにこの点について語っています。
たとえばウェブサイトでショップを運営している人は必ずしもサイトにやってくるひとが何分ページを開いているか、直帰率はどのくらいなのかという数字そのものが大切なわけではありません。
単純な売上も数字としては追えます。しかしそれは、顧客の心が動き、魅力を感じて買い物をしてくれたかという最も大切な部分をほのめかすだけで、教えてはくれません。
ときとして、私達は最も大切なものがわからない以上、その置き換えの数字から推論をすることしかできないのです。
さて、ここで強引にこの話を最近耳にすることが多い、「ブログとはいかに書かれるべきか」という話題に結びつけてみましょう。この話題が、実は意外で深いつながり方をするのです。### 何を語らないか
先日、ブログR-Styleの倉下忠憲さん(@rashita2)が「ブログと、その芸」という記事で当ブログに触れてくださっていました。
長く続き、かつ読者の興味を失わないブログの著者は、存在感のない情報の伝声管ではなく、いわば「芸人」のようにアピール力の強い発信者になるべきではないかという話題から出発して、そもそも「芸」とはなんだろうか?と問いかけている記事です。
ネタフルは、「言わない力」が強いブログだと感じる。逆に、Lifehacking.jpは「言う力」が強いブログだ。対して、みたいもんは、「言わないで匂わせる力」があちらこちらに漂っている。
よくみているなあと感心するわけですが、倉下さんはこうした「言わない力」を軸として、ネタフルのコグレマサトさん(@kogure)の記事を書くスタイルに抑制の効いた魅力があることを指摘して、それこそが読者がニュース源としてネタフルを選び続ける「芸」なのではないかと推測しています。
しかし実はここに、もう一つ「言わない力」があるのです。
それは**ネタフルがなにを記事にしていない**かという選球眼です。
ネタフルはいかにニュースが巨大でも、残酷な殺人事件や痛ましい動画をシェアすることがありません(現時点では)。グラビアアイドルの話題はあっても(お世話になっています)子供に見せられない話題は選びません。ここにコグレさんの矜持があるのはもちろんですが、メディアとしてのネタフルの安心感もあるのです。
私も同じです。時間の関係上、すべての話題を扱うことができない以上、このブログでは「何を書かないか」にむしろ苦心しています。
「あれ?なんで今日はこの話題ではないのだろう?」と不思議に思う読者がいるかはわかりませんが、もし気づかれた際は、そこには「書いてしまおうか、いややめておこう」という、Lifehacking.jpをLifehacking.jpたらしめているものと、そうでないものとの境界があるのです。いつも境目がくっきりみえているわけではありませんが(笑)
ブログ論の可笑しさと、何を追うのかという芸
ブログ論の可笑しさというのは、自己言及の可笑しさです。
本当は「◯◯についてブログを書く」という話題なのですから「◯◯」の部分が話題になるはずなのに手段としてのブログが主となってしまうことからそれはえてして生じます。悪いことではないのですが、この構造は意識しておくとよいでしょう。
この「◯◯について」という部分こそが、「何を誰に届けるの?」という根本の部分であって、その反作用としての「何を書かないか」という問題に直結しているのです。
ブログの芸というのは、adsenseのはりかたではありません。SEOの方法でもありません。PVの向上のさせ方でもありませんし、その数字でもありません。収益の生み出し方でもその数字でもありません。
いや、もちろんそれは言い過ぎで、それらの数字でもあるのです。が、それは最初のSeth Godinのブログ記事に登場した、一番大切なことが測定できないのでその代替として測定されている面がありますよね。
ならば、何を追えばいいのでしょう。
倉下さんは「ブログとはメディアである。メディアとは、AとBをつなぐ媒介だ。だからAが何を伝えたいのか、Bが何を受け取りたいのかによって、ブログの芸は変わってくる」と、先の記事を結んでいます。
このか細い、見えない交信の糸が感じ取れるでしょうか?
「書きたいこと」と「書かないこと」が書き手としての私に選び取ることができるものであるならば、「それを読むか・読まないか」という部分が読者の選び取りです。この両者のワルツこそが、ブログの芸なのです。
よくある「バイラルメディア」的な手法は読み手が思わずクリックする話題を選びとる芸です。それはそれでソーシャルメディア時代における大事な「芸風」なのですが、「私が何を書きたいか」の部分は大きく減退するかもしれません。
「好きなことを書けばいい」とブログ論ではよくいわれますが、好きなことを書いて読者が読まないということもあります。読まれないものが悪いとは言いませんが、読まれるべくして書いた結果読まれないのは意図に反するでしょう。しかしほんの一握りの読者は愛読するかもしれません。それもまた「芸風」なのです。
自分と心を同じくする、どこにいるかわからない読者にボールを投げ続けることもあります。どこにいるかわからないのに、狙いをつけて、きっと向こうで受け取ってくれる人がいるはずだと信じる。そして時折、読者から応えが返ってきて、ああ、やっぱり君はそこにいたんだねとホッとしたり、信じられない気持ちになったりする。
その組み合わせはさまざまですが、書き手と読み手の関係性のうえで成り立つものが「芸」なのだということはおわかりいただけると思います。
この相手のみえないダンスのステップ、受け取るミットがみえないキャッチボールに、測定可能な数字はありません。
だから書いてみるのです。投稿してみるのです。自分の感じていることをほかに感じている人はいないだろうかと耳を澄ませてみるのです。
するとごくまれに、気づく日もあるのです。実は自分はすでに踊っていたのだと。そしてそれが楽しくて楽しくて、やめられないと思う日が。
それが、ただ書かれて終わる小説とは違う、現在進行形の作品であるブログのもつ「芸」の良さなのではないかなと思うのです。