黄金の時をもとめて

Sunset

夕食が終わり、子供をお風呂に入れ、寝かす準備ができた時点で八時半。首尾よく眠ってくれたら九時にはその日のすべてが終わり、私は一息をつくことができます。

寝かすまでに手こずったなら九時半くらい。いわゆる「寝落ち」をしてしまった場合は十一時頃ということもありますが、重い体を起こしてブログを書いたり、執筆をするくらいの時間はまだあります。

しかしそんなときに限って。

「パパー」と、なかなか寝付けない娘がとなりの寝室からちょっと情けないような、悲しいような声を上げ、私はすぐに飛んでいかなくてはいけなくなります。

ときには一つの記事を書き上げるまでに三度、四度これを繰り返すことも。

よい感じに文章が流れ出していたところでこうした中断が入ると、苛立つこともあります。「なんで静かに眠れないんだろう?」とため息をつきながら向かうこともしばしばです。

でも次第に、私はこれが「黄金の時間」なのだと意識せざるを得なくなっています。### 先にはわからない黄金の時間

幼稚園に通うようになって、娘も長く眠るようになってきました。遊び疲れているのか、最近は昔ほど目覚めません。会話に友達の名前が入ってくることも多くなってきました。

毎日の忙しさのなかではなかなか感じられないゆっくりとしたペースで、でも確実に、時間は過ぎていっているのです。

私は想像します。

きっと1年後、この子は自分で眠り、自分で起きるようになり、ひょっとしたら親と遊ぶよりも友達と遊ぶほうが楽しくなっているかもしれません。

私はさらに想像します。

10年後、20年後、30年後、この子を立派に育てることができていたらそれは誇らしいことなのですが、それでもです。

それでもきっと私はもう一度、この小さい子が「パパー」と呼ぶ声をこの耳で聞いて、暗闇におびえてしがみつくのを慰めて、横に寄り添って眠ることができるのなら、どんなものでも投げ出してかまわないと思うのではないでしょうか? それが容易に想像できるのです。

いまは少しだけ煩わしい瞬間が、きっとすべてが過ぎ去ったあとでは、なにものにも代えがたい黄金のような時間となっているのです。そしてどんな時間が黄金なのかをあらかじめ見通すことは至難のわざなのです。

さらに複雑なことに…

しかしことはもっと複雑です。というのも、「きっとこれは価値がある」と今を生きている時間があとになると無駄になるのと同程度に、「あとできっと価値が出るはず」と積み上げた時間が無駄になることだってあるからです。

これはブログにおける「ログ」の考え方とも少し似ているところがあります。あとから過去にもどってログをためることはできません。かといって、先回りしてためたものが的はずれである危険は常にともないます。

唯一の公式は、「あとでどう感じるかはわからない」ということだけです。

今日行ったイベントはあとでなにかもっと大きなことにつながるかもしれませんし、つながらないかもしれません。かといって、今日できなかったこと、体験できなかったことが決定的に損になるとも決まっていないのです。黄金はどこに隠れているかわからないから。

そうすると、残された希望は一つだけな気がします。

それは子供に邪魔された苛立ちの瞬間でも、思い通りに何かが進んだ時だとしても、それがどんな意味をもっていたかを忘れずに記憶することです。

忘れずにいれば、あとで自分の時間の使い方の愚かさを噛み締めることになるのかもしれません。しかし記録しなければ気づけなかった多くの黄金を発見することもできるでしょう。

私は少し楽観的な気持ちでいます。記録が、ログが、最終的には自分を救ってくれるのではないかとなかばすがるようにして記録をしているのです。

この記事にふさわしい最後の一行は、娘が泣いて起きてきたので、もう思い出すことができません。

でも大丈夫。それさえも、記録しておけばいつか輝かないともかぎらないのですから。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。