逃れゆく人生をつかめ。本当のライフログはログそのものではないことについて

何を買うか、どんな肩書きを得るか、人にどう思われるか、他人と比べてどんな生活をしているか。

生きていると「何を得ているか」が気になることがよくあります。それは仕方のなことです。でも人生から逃れゆく感覚にこそ、最も大切なものが隠れていることがあります。

ファイナンスブログの The Simple Dollar でこの「常に逃れてゆくもの」についての美しいエントリがありましたのでご紹介するとともに、自分がこうした瞬間を保存するためにやっていることについて書いておこうと思います。### 動画の中の人生

「先日、昔とった動画をみることがあったんだ」と The Simple Dollar の中の人は書いています。

「大学の頃の自分たちはありえない程に若くみえた。最初の子供があまりに小さくて弱々しく見えてどうやって抱けばいいのかわからなかった感覚がよみがえった。子供が二歳のときに公園に行ったときの映像があった。遊具の急な方を登りたがったけど、ちょっとこわいので手を引いてあげたのだった。」

こうした感覚、日常にちょっとした微笑みやきらめきをあたえる家族との時間や、友人との会話は、そして逃れゆく印象は、そのほとんどが記録されることがありません。過ぎてしまえばせいぜい数枚の写真と、Foursquare のチェックインが残っているくらいです。そんなものを指して「ライフログ」だなんて、なんという傲慢なのでしょう。

「逃れゆく」と書いているのは、過ぎてしまってはこうした感覚は二度とそのとおりに再現することは難しいからです。私はもう二十歳のときに自分が世界に対していた本質的な怒りをかすかにしか覚えていません。親に反抗していたときにどんなむちゃくちゃな論理を振りかざしていたのかも。それが当時の自分にはどれだけ大切だったかも。最初の子供が生まれた日の世界が一変した感覚は次第に次第に、遠いものになっています。

事実はいくらでも記録できます。でもその意味は、常に常に逃れゆくのです。The Simple Dollar の記事もそのことについて触れています。

私達が当たり前だとおもって普段感謝することを忘れるものはそれも逃れゆくものだ。私は二度と長男を赤ん坊のように抱き上げることはないだろう。大学の頃の、屈託のない好奇心にみちた家内も過去の人だ。私の娘はあれほど大好きだった三輪車にきっともう乗ることもないのだろう。

すべてのことを楽しみ、味わうのに今この瞬間ほどふさわしい時間はない。新しいガジェットや洒落た外食も魅力的かもしれないけれども、それが人生から逃れゆくこれらの瞬間からあなたの意識を遠ざけるものなら、あなたは何と多くのものを見逃していることか。

お金を使うことは少なくていい。時間をもっと使うんだ。

トリガーを用意しておく

それではすべての大切な記憶は一過性で人生には「今」しかないのかというと、そうでもありません。この逃れゆく感覚をあとからよみがえらせる「一片のマドレーヌ」があればいいのです。

そうしたトリガーを作るためになら、ライフログと称する写真や記録にも意味があります。ただし、ログ自体が記憶だと勘違いをしなければの話です。

私はより純粋に感覚をよみがえらせるために一日に1分程度の動画を iPhone で撮影することがよくあります。

子供がベッドの上で飛び跳ねている様子、職場の帰り道に眺める海の光景、案外記録することがない自分の自宅の周囲の風景、部屋の中の様子。

「記録しておこう」と気負うのではなく、ただなにも考えずに習慣として「一分動画」を無作為にとっていくと、それだけで年間6時間ものトリガーが蓄積されます。これでも十分とはいえないかもしれません。でも何らかのトリガーにはなるでしょう。

同様に、Evernoteに音声を記録したり、モレスキンのなかに逃れゆく感覚を書き留めることもあります。すべては、記録させることよりも、その背後にある逃れゆく感覚の襟をとらえるためなのです。

本当のライフログは、ログそのものではない。そのログから逃れゆくものなのだということ。そろそろ、これは私が自分の「核」として定着させたいと考えていることなのです。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。