「リスク」「恐れ」そして「心配」を越える力
誰もが、恐れと向き合って行動しなければいけません。
事故であったり、事業の失敗といったリスクはゼロにすることができませんし、恐れと心配もきっとなくせないのでしょう。しかしそれらを乗り越えて行動するにはどうすればいいのか? これは臆病な自分がいつも自問自答していることです。
先週も紹介したセス・ゴディンのブログで、これもまた知恵にあふれた「リスク・恐れ・心配」についてのエントリーがありました。### リスクと、恐れ、心配の違い
リスクについてセス・ゴディンはまずこうまとめます。「リスクは我々の周囲にいくらでもある。「失敗」しうるものはすべてリスクといってもいい。そして何か変化を起こそうとすること以上にリスキーなことがあるだろうか」
これは未来は私たちには知り得ないということと同義です。新しい仕事を手がけたり、人間関係を変えたり、本や製品を生み出したりといったことは、帰結があらかじめわからないからこそやる価値があります。リスクの大きさは価値の大きさそのものといっていいでしょう。
それに対して「恐れ」についてはこうまとめています。「恐れはリスクに対する正当な反応だ。リスクは外からやってくるのに対して、恐れは私たちの想像のなかにある。恐れとは、「うまくいかなかったら」何が起こるかについて私たちが想像することだ」
そして「心配」については「心配は、恐れをなんとかしようとしてそれに対抗する肉体的、精神的な活動のすべてだ。恐れていることが現実にならないように、なったとしてそれを生き延びられるように私たちはいつまでも心配する」
この3つを区別したうえで彼はこうまとめます:
もしリスクが恐れを抱かせるに十分だと信じるなら、そしてそれが終わりのない心配を生み出しているなら、きみにまっているのは幾多の寝苦しい夜と、結局は自分の芸術を捨て去るという結末だろう。逆に、この3つがまったく別の現象であると気づき、価値のある仕事にはリスクは当然存在すると認めた上で恐れとその親友である心配を必要以上に心のはかりにかけることをやめることもできる。
そう、リスクは恐れを引き起こしますし、恐れはすべてその人の想像力の中で現実なのですが、その全てが起きるとは限りません。震災以降さまざまな「リスク」が取りざたされて、大いなる「恐れ」が際限なく生産されましたが、何が現実になったか、なっていないかを整理せずにいると「恐れ」に飲み込まれてしまうのは私たちがみな肌で感じたことだと思います。
私が恐れていること
私も、実に多くのことを恐れています。
家族のこと、仕事のこと、もっと卑近な話だとこのブログのことなど。些細なことや、あり得ないことを想像して勝手に恐れ、心配することは子供時代からの習慣のようなものです。
もっともわかりやすいのが、たとえば本を書いているときです。
本を執筆する際、完成した本への反応を先取りして修正をすることはできません。書いている最中に不安になってくると、どんな間違いをおかすのだろうか、どんな失笑を買うのだろうか、どんな批判をうけるのだろうかと気になって仕方なくなり、一文字も書けなくなることがあります。
しかしよく考えると、それは上の例で言うところの「心配」であり、心配をしても・しなくても全力で原稿に打ち込んだ結果達成される成果と至らない部分にきっと変わりはないのです。
似たようなことは仕事でも、家庭でも、この記事を書いている最中にもあります。この「投稿」ボタンを押した先の未来が心配で、行動ができなくなることだってしばしばです。でも実は、心配した場合と心配しない場合でも、「何を書くべきか」に変化はないのです。セス・ゴディンはこうまとめています:
切り分けよ、不合理な恐れを除外して、とにかく最高の仕事をするのだ
そこに「テクニック」や「ライフハック」は存在しないのです。常識のあるひとなら、何が不合理な恐れで何がそうでないかは肌感覚でわかるでしょう。あとは、いまこの仕事を始めるか始めないか、いまこの提案をするかしないか、そしてこの「投稿」ボタンを押すか押さないか、だけが残ります。
それならば、常に「投稿」を押し続けることを選ぶこと。それがきっと恐れを越えるためのヒントなのです。