加速し続ける毎日を劇的にスローダウンさせる方法
トーマス・マンの大部の小説「魔の山」では主人公のハンス・カストルプが従兄弟のヨーアヒムをサナトリウムに訪ねた最初の三週間に小説の分量の三分の一が費やされ、それからハンス・カストルプが山の上の生活に慣れるにしたがって時間は加速し、あてられるページも少なくなるという構成をしています。
子供の頃は毎日があれほど長く感じて、一年一年が過ぎるのがゆっくりとしていたのに、大人になってからは飛ぶように時間が過ぎてゆく。まさにこれをページのうえで再現したのです。
しかし実際に時間の過ぎるのが速くなったり、遅くなったりするはずがありませんので、これは時間を感じ取る私達の感覚の変化にほかならないのです。
そしていまでは、すべてのやりとりがリアルタイムで瞬時の反応を期待されている分、私たちの時間のものさしの目盛は極度に細かくなり、それに反比例するように時間が過ぎ感覚は速くなっている気がします。
しかしそれではなんとなく悔しい気がしないでしょうか? 強制的にゴール(死)にむけて急かされているような、強いられて時間を費やしているような感覚がぬぐえません。
そこで、少しでもこの感覚に抗おうと毎日のように追い求めているのが、「時間の差別化」です。「今日」は「昨日」とどう違ったのか? どのように「今日」は特別なのか? を意識する方法です。
気にしていることにはさまざまあるのですが、特に特徴的なものを3つとりあげてみたいと思います。### 手帳と向かい合う
私は自分の20代を思い出すことができないのですが、30代になってさまざまに記録をつけるようになってからのほうが記憶がよくのこっていて、時間を意識できるようになりました。
そして革命がおきたのが、2005年あたりにモレスキンでユビキタス・キャプチャーを実践し始めた頃からです。
忙しくても、記録する量に比例して時間は遅く感じられるようになり、過去を振り返っても毎年の出来事が豊かに感じられるようになります。つまり**「思い出せることが多い」ほど、時間は遅く感じられる**という原理にいきあたったのです。
手帳だけでなく、写真をとること、ブログを書くこと、執筆をすること、こうした作業がログとして意識できるようになればなるほど、時間間隔は調整できるようになっていきました。
「毎日すること」を意識してログする
ここでもう一つ挙げたいのが、毎日がどのように異なるかを記録するだけでなく、毎日することを特別化するというパターンです。
たとえば食事などは毎日とるもので、とりたてて覚えておくほどのことはないのかもしれませんが、「最後にカレーを食べた日」といった「カレーログ」「コーヒーのログ」といったものが、その一食、一杯を特別なものにしてくれます。
いまは、毎日娘とどのような時間を過ごせたか、今日はどんな言葉がでてきたかを記録するだけでも、今日は昨日とも明日とも違う、という感覚を保てるようになります。
意識的に新しいことを学ぶ
最近、本業のデータ解析で利用するスクリプト言語を Perl から意識的に Python に変えてみました。はじめは慣れないので時間がかかるのですが、ここで面白いほど午後のプログラミングの時間を長く感じられる瞬間に出会うことがありました。
たとえあっという間に時間が過ぎたとしても、何か強い手応えが残っている感覚があり、時間を無為にしたというやるせなさがありません。
新しいことを学び、実践するのは自分を再創造するようなもので、子供や若者に戻って再度チャレンジする姿に似ています。
新しい技術だけでなく、これまで読んでいなかった本を手に取ること、新しいジャンルを吸収すること、どれもが脳に負荷を与えて加速して自動化しきった世界にブレーキをかけてくれます。学びは一朝一夕には進まないでしょう。でもこのたどたどしい道程こそが時間を豊かにしてくれるのです。速読? 加速学習? 便利かもしれませんが、それほど魅力は感じません。
忙中閑あり、それを賢く使う
このブログを始めたころ、私はすべてのスキマ時間を効率化や仕事のために使うことが楽しいと感じていた時期がありましたが、いまでは逆にたった5分で人生について思索を巡らせたり、エレベータに乗るほんの短い時間に今日の一日を振り返ったりといった使い方をする方が面白いと感じています。
忙しさはきっとなかなか根本的に解決することはできないでしょう。しかし精神のなかにはそれとは異なる時間の流れを生み出すことが不可能ではありません。
「自分だけのログ」が、仕事と雑用の濁流にのまれない精神のオアシスを作ってくれるのだと意識すると、なおのことこうした本質的なライフログから離れられなくなります。
みなさんは時間をゆるやかにするために何か実践していることはありますか?