記憶力を底上げする「記憶の宮殿」の作り方

記憶の中で遊んだことがありますか? 簡単なテクニックで記憶を「場所」として理解するようになると、思わぬ楽しみや、発見がまっています。

「羊たちの沈黙」の続編である「ハンニバル」において、天才的な頭脳を持つ殺人者ハンニバル・レクター博士は、記憶の中で千の部屋がある広大な宮殿を構築していました(文庫版下巻 p65 参照)。

小説の中のレクター博士はたとえ体は拘束されていようとも、頭脳の中でこの宮殿の中を自在に歩き回り、その小部屋の一つ一つを訪問するだけで過去のどんな記憶も呼び起こすことができるばかりでなく、過去の記憶の中で生きることさえもできるのです。その描写はとても荘厳で、こんな記憶力をもっていたらどんなに良いだろうとあこがれをかき立てるものでした。

このような膨大な記憶力はさすがにフィクションの産物とはいえ、「記憶の宮殿」とよばれる方法は中世の学者が実際に実践していた古い記憶術の一つです。本が貴重だった時代、学者はこうした記憶術を駆使して膨大な記憶を脳のなかに蓄えていたといいます。

学生時代、私は当時在籍していた大学の図書館で「ハンニバル」を執筆したトマス・ハリスが参考文献に挙げていたジョナサン・D・スペンスの「マッテーオ・リッチの記憶の宮殿」という本を見つけて、その詳細について勉強したことがありました。

そしてレクター博士とまではいかないまでも、今に至るまで、ゆっくりと自分の記憶の宮殿をつくることを頭脳の趣味として続けています。

今週ライフハッカーの記事でも紹介された「記憶の宮殿」について、自分の実践してみた方法をご紹介いたします。

記憶の宮殿のしくみ

私たちはふだん意識しなくても「記憶の宮殿」(マインド・パレス)を使っています。

たとえばたくさんのメモや領収書を保管しなければいけないときに、すべてが一つの山になって積み上がっているならば、「この中からあのメモを探せ」と言われてもすぐにはできません。

そこで必然的に、誰もがメモや領収書を目的に応じて整理し、引き出しやフォルダーなどといった「場所」に封じ込め、「あの場所にあるはず」という信頼のもとに行動をします。

「記憶の宮殿」というテクニックは、この「場所」が現実の場所か、頭の中にあるのかの違いだけです。頭のなかの「場所」に記憶を呼び起こすためのキーワードを置いておくことによって、思い出したくなったときに自在に想像上の部屋や、建物を訪れることで、そのキーワードを拾い集めることができるようになります。

「記憶の宮殿」の実例

読むだけでは荒唐無稽に聞こえますが、実践してみると、これがなかなか簡単で、記憶するときのストレスを大幅に軽減してくれます。

普通、「記憶の宮殿」に利用するのは建物だったり、自分のよく知っている部屋だったりしますが、なじみがあって隅々まで脳裏に思い浮かべることができる場所だったら何でも利用できます。

私が「記憶の宮殿」として利用しているのは、大学時代に十何年も一人暮らしをしていた、茨城県のつくば市です。町自体が特殊な構造をしていますし、ここだったら大学のほとんどすべての建物、町のどんな小道も把握していますので、私にとっては細かいところまでイメージすることができるという利点があります。

こうした舞台を選ぶことができたら、この脳裏の「場所」に記憶を呼び起こすための「鍵」を置いていきます。このとき、思い出したい物や、人物の肖像などを強く思い浮かべて「場所」に結びつけることもできますが、多くの場合は類推できる「鍵」を置いておきます。

例えば、私は自分のパスポート番号を思い出すために、つくばバスセンターの一角にある成田空港行きのシャトルバスが発着する停留所を利用しています。飛行機の中で入国カードを書くときなどに、荷物からパスポートを取り出さなくても私は「海外旅行 → 羽田空港 → バス停」という類推で、自分の「記憶の宮殿」のバス停へと向かいます。

頭の中のバス停留所に近寄ると、そこには一人の男(野郎)が黒い本(埴谷雄高の「死霊(しれい)」)を手にして「行くな、行くな」と地団駄を踏んでいるというイメージが私を迎えます。これは私があらかじめ植え付けておいた記憶の「鍵」で、あえて忘れにくいように異様なイメージにしてあります。

この男の異様な姿が、パスポート番号を構成する 86、40、197 という数字を想起させ、さらにここでは伏せているもう一つのキーワードを加えると、英文字部分と数字の順列が自動的に想起されるのです。

わたしの想像上のつくば市には、大学の図書館の中から、筑波山のケーブルカーの駅に至るまで、連想が可能な数十カ所にこうした鍵が散りばめられていて、さまざまに重要な情報を引き出せるようになっています。

私は記憶力が非常に弱い方ですが、そんな私でもさしたる苦労もなしに楽しみながら広げることができるのが、この「記憶の宮殿」というテクニックの良いところです。

作り方のコツ

私もまだ自分の宮殿を造っている途中ですので、理解できていないことも多いのですが、現段階でコツらしいものを3つつかめるようになってきました。それは:

1. 何もかもを覚えようとしない

山手線の全ての駅を時計回り、反時計回りで暗唱できたり、円周率を100桁まで覚えられるのはよい脳の訓練になりますし、それ自体はすごいことです。しかしそのデータ自体は、日常においてはほとんど役にたちません。

現実的な記憶術の目標は全てのデータを覚えておくことではなく、利用する価値のある情報を連想できるように準備しておくこと です。

Wikipedia を見ればわかるようなデータに過ぎないことを正確に覚えておくよりも、「そういえばこんな話題があったはず」とその存在を意識できるようにしておく 方が現実的です。「記憶の宮殿」はデータを置くことよりも、なるべくデータの存在を感知させる鍵を散りばめておく方が、役立つケースが飛躍的に増えます。

2. 「場所」に置くのは全てのデータではなく、記憶を呼び戻す「鍵」だけ。

例えば私の「記憶の宮殿」の中で自宅の机の上には今、巨大な雪だるまが置いてあります。これは邪魔なくらいに巨大に想像することで忘れにくくする(「なんだって机の上にこんな物を置いたんだっけ?…ああ! そういえば」)というテクニックですが、雪だるま自体は、先ほどのバス停の男と違って、それ自体に記憶として復号できる情報はありません。

この場合は、実は雪だるまを主人公にした別の一連の物語があって、それが数珠つなぎになって一つの記憶を構成しているのです。雪だるまが置いてあるのは、「雪だるまの話を思い出せ!」という鍵に過ぎないのです。

実際に利用できる「記憶の宮殿」を作るには、こうした印象深い鍵をそれに似つかわしい場所に置くことと、連想法・物語法などの他の記憶テクニックと組み合わせることでより多くの記憶を呼び起こせるようにしておくことが重要になります。

ところで、もはや重要ではない記憶の鍵を消したくなった場合は、新しい鍵で同じ「場所」を上書きするのが最も効果的です。私たちは意識的に忘却するということはできませんので、あくまで新しい、より強いイメージで上書きを行っていくほうが楽に記憶の管理ができます。

3. 時間をかける

新しい町の構造や、小さな抜け道を覚えるのに長い時間がかかるように、「記憶の宮殿」を作り、維持するためにもそれなりの時間がかかります。

というのも、記憶のなかに置いた「鍵」が固定化するまでにも時間がかかりますし、それを想起するために繰り返しその「場所」を何度も訪問する訓練が不可欠になるからです。

初めて「記憶の宮殿」を造る場合は最初から巨大な宮殿を造ろうとはせずに、なじみのある自分の部屋を使って、その4方の壁、部屋の4すみなどを利用するのがわかりやすいです。

自分の部屋をイメージして、その一方の壁に「覚えておきたいイメージ」を絵にして掲げたり、彫刻にして置いてみたりといったことをしてみます。次に自分の部屋を頭の中でイメージした際に、「あれ、この壁には何かがあったはず…」という引っかかりが生まれれば、それが記憶が定着し始めている最初の一歩です。

「ハンニバル」のラストシーンでは、レクター博士ではない別の登場人物が記憶の宮殿を構築してゆくことになりますが、そこでも「堅固に築かれつつある」という表現がされています。

記憶の宮殿も一日で建てることはできません。ゆっくりと、着実に、決して忘れたくない記憶を何度も記憶のなかで踏みしめることで、あなただけの記憶の版図を構築してみてください。

「記憶の宮殿」の作り方や、連想法、記憶をアルファベットにコーディングする方法などについては「マインド・パフォーマンス・ハック」に詳しく書かれていますので、こちらも参照してみてください。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。