ゆっくりと動きながら高速でこなす、一流の研究者の Doing リスト
「mehori さん、それは僕にもよく思いだせない。だからこのリストに加えておこう」
痩身で薄く微笑みを浮かべているその人は手にした黄色いリーガルパッドに何かを書き付けながら言いました。
「じゃあ、はじめようか」
プリンストン大学のはずれに位置する研究所の一室で、私はそもそも自分が学生時代に初めて読んだ英語論文の著者と相対していました。その人は自分の想像していたよりもずっと穏やかで、いつも探るような不思議な目を向けてくるのでした。
そんな彼に、私はついさきほど、12年も前に彼が使っていた大規模なコンピュータプログラムを使わせてほしいという、大それた願いごとを、緊張で上がりきった声でなんとか口にしたところでした。
彼、以前から紹介している一流の研究者の紹介でお会いする事ができたその人は、別段怒る風でもなく「けっこう古いファイルを探し出さないとな…」と作業量を見積もるようにつぶやいたのでした。
そしてこの黄色いリーガルパッドが登場しました。
「いま、なにをしているか」のリスト
この方はスーパーコンピュータを用いたモデリングの大家でしたので、私は会うまではもっとハッカーめいた人なのかと考えていました。
しかし「はじめようか」と言って私を端末の横に座らせた彼は非常にゆっくりとした手つきで、しかもほとんど左右の指一本ずつで端末の操作を行なっています。お世辞にも、ハッカーらしさはありません。
しかしその作業にはまったく無駄がなく、黄色いリーガルパッドに書かれたリストの一番上から一つずつ確実に作業を行っていきます。時折指を止め、考え込んだかと思うと、すぐに作業を再開するのでした。
面白かったのは次の一瞬でした。12年前の記憶を呼び起こしながらファイルを探していると、探していたのとは別のファイルのディレクトリを発見したのです。
彼はちょっと顔を曇らせると「こんなところにあったのか…」とつぶやき、「でも今やっていることから離れるのはいやだな」と言ってリーガルパッドの方に、ディレクトリの情報をささっとリストの最後に付け加え、それまでやっていた作業を続行したのでした。
リストの作業は例外無く上から容赦なくこなしてゆき、発見できなかったものについては次に行なうべきアクションをリストに書き込んで、その日の会談は終わりました。
ほんの1時間程度の作業でしたが、この黄色いリーガルパッドが、私に非常に深い印象を与えました。
Doing リスト
非常にゆっくりとした手つきであるにもかかわらず、しかし確実にリストに書かれている事を上からこなしてゆくこの人は、数十万行からなるプログラムを現在も統括しているプロジェクト・マネージャーです。過去30年にわたり、この研究分野でトップクラスの業績を誇る人物でもあります。
そんな人がコンピュータを打つスピードが非常に遅いというのはとても意外な気がしました。しかしそのかわり、確実にこなしてゆく作業の裏で、「次になにをすべきか」という思考がフル回転している、そんな印象がありました。
黄色いノートパッドはそんな彼を脱線させないための**「いま、何をしているか」**のリストなのだということが見て取れました。実際、彼はリストに書かれている以外のことは、いっさい実行していません。
見つからずにいったんあきらめたファイルを「あ、あそこだったかも」と思い出した場合でも、そのコマンドを打ち込むのではなく、リストにそれが加わってゆくのです。
そしてリストの一番下までいったところで、「すべてのタスクが完了している」のではなく「完了しなかったものにかんするアジェンダが立ててある」という状態であったのにも注目すべきだと思いました。
このリストのうち、打ち消されていないものが、次のリストに加わってゆく訳です。単純で、アクションだけに根ざしたリスト作りのお手本を見ているようでした。
このことを、<かねてからご紹介している伝説の研究者の先生>に話すと、先生はにこりと笑って「彼は常に先の事を考えているのさ」言われました。
「普通の人は論文を書くぞ、仕事をするぞ、と思うと机のまえに座ってから『さあ、なにをするんだっけ』と考える。**でも彼は始める前からイメージを作り上げてから、それから初めて手を動かすのさ。**どちらが速いと思う?」
「なるほど」と先生に答えながらも私はあの黄色いリーガルパッドを思い出していました。その質問の答えは、ゆっくりと動きながらも速く進める秘密は、あの黄色いリーガルパッドに小さな文字で書き付けてあるのだろう。そう思ったのでした。