嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢
Change the World: Knowing When Not to Listen | Liz Strauss at Successful Blog
むだな情報が入ってこないようにするのは本当に大事です。最近、ニュースさえも見ないことにしようかと真剣に思います。
ニュース番組の嫌なところは、あまりに悪いニュースが多すぎるという点です。災害の報道や、重大な事件を教えてくれるのはいいのですが、多くの日はなんだか「こんばんは、ニュースです。それでは今日起こった悪いことを悪い順に紹介します」という構成で困ります。
どこかで子供が痛めつけられたとか、殺人事件があったとか、そういったニュースはそれ自体は非常に痛ましくて、なんとかしてあげたい気持ちにさせられますが、たいがいはもうすでに視聴者としての私にできることはなく、ただ後味の悪さが残るばかりです。
Liz Strauss のブログにこの気持ちを代弁してくれる小さなお話が紹介されていました。出典はわからないのですが、とても良かったので翻訳して紹介。
昔々、何世紀も前に一人の教師が田舎の泥道を教師らしい考え事に満たされながら歩いていました。すると生徒の一人が先生のもとに駆け寄ってきて、興奮気味に言いました。
「先生、あなたが知っておくべきニュースがあります。街からの、大事なニュースです」
先生は微笑むと歩くペースをゆっくりにして、生徒が息を継げるようにしてあげました。そして並んで歩きながら柔らかい口調で言いました。
「先に一つ質問をしてもいいかな?」
「ええ先生、もちろんです」と生徒はいいました。
「君のいうこのニュース、それは何かよい知らせなのかい?」
「いいえ先生、悪いことをした人がいるという話です」
「君はその人を知っているのかい?」
「いいえ、でもこのニュースを教えてくれた人は知ってます」
「君はこのニュースが真実だと知ってるかな?」
「僕の友人はそうだと言ってますが」
先生は、生徒が自分の答えを自分で聞けるように気を遣っているかのように静かに歩いていました。先生が次に口を開いたとき、それはもうほとんど囁きでした。
「つまり君は、君の知らない人が起こした、真実であるかもわからない、悪いニュースについて教えてくれようとしたわけだね。それは重要とはいえないね」 ここで言ってるのは「悪いことからは目をそむけよう」というのとはまったく次元の違う話です。信憑性も疑われる、自分にとって関係のない情報は意味がないという単純な論理に加え、嫌なニュースをたくさん投げつけられ、少しずつショックを感じることさえなくなるくらいなら、むしろそれらの全てをシャットアウトしても悪事に対して強い嫌悪感を感じる心を守りたいという意志が感じられます。
テレビニュースのもう一つ悪い点は、問題を「外部」のものとして捉えやすくしすぎる点にもあります。ニュースを見ていて「最近世の中はどうなってしまったんだろう!」「最近の若者ときたら!」「まともじゃない奴がおおぜいいる。自分はそうではなくて良かった!」、こんな風に考えるだけにとどまっていると次第に問題の原因を外にしか求めなくなってしまうのではないでしょうか。しかもそれは自分で考えたことではなく、他人の書いたシナリオに乗せられてのことなのです。
もちろんニュースを冷静に分析することも必要ですし、時事に通じていることは重要なことです。でも家に帰ってちょっと和みたいと思うとき、朝一番に出勤する前、そんなときにはテレビをあえて消してしまう。あえて情報を断ち切ってしまう。こんなオプションもあってもいいのかもしれません。