偉大な小説の時代はもう終わった? 時間不足と中断の時代の作品と読書

最近ひとつの小説を、ひとつのまとまった文章を、なんの妨害もなく集中して読めたことがありますか?

読みの深さはどうでしょうか? 楽しい、悲しいというだけではない微妙な感情の機微、隠された隠喩、ひょっこりと顔をのぞかせる伏線、張り巡らされた著者の意図を意識のなかで再構築させつつ、この読みで正しいのかと霧の中を迷いながら光の方に向かって進むような濃密な読書体験に恵まれていますか?

そもそも、この二つの段落を読む間にメールの受信箱を開きたくなる誘惑を感じたり、ツイッターの通知に目を一瞬そらしたり、いったいこの人は何を言ってるんだ、3行で書けばいいのに!とページを離れそうになった人は?

なにもそれが悪いということではありません。しかし、あるまとまった分量と情報量をもった文章を読むための時間も集中力もなくなりつつある今、文学、あるいは日常の文章そのものが変化しつつあるのかもしれないというのは意識しておかなくていはいけない大事な点かもしれないのです。

The New York Review of Books に掲載された Tim Parks のブログ記事、“Reading: The Struggle” がこの点について興味深い考察をしています。### 分断される時間と集中力

著者は、もう三十年ほど前にイギリスを出奔してイタリア・ヴェローナの郊外で駆け出しの作家として活動を始めていた頃に、ロンドンの出版社からやってくるかもしれない知らせを届ける郵便配達員の物音に耳を澄ませていた時代のことを回想します。

国際電話は高額すぎて、ファックスもなかったその家では、ポストに物が落ちるその音だけが外の世界とのつながりでした。それがなければ一日中が何かを書き、読むだけの可能性をもった時間であったのです。

こうした環境はちょっと極端かもしれませんが、しかしそれと対比したいまの著者の生活には身に覚えがある人も多いでしょう。

今は逆に、すべての真剣な読書の時間は計画され、戦って奪い取らななければならないものと化している。すでに1990年代に、モデムのついたコンピュータで翻訳をするころには私の読書時間はミラノへの2-3時間の行き帰りの時間のあいだにほとんど追い込まれた。あそこで数時間、ここで数時間というように。ラップトップのバッテリーが良くなり、モバイル通信環境が整備されるとその時間も脅威にさらされた。意識は、すくなくとも私の意識はコミュニケーションに傾けられる傾向がある。それが少し大げさな表現というなら、他人とやりとりすることに意識は流されるのだといってもいいだろう。

こうした分断されてゆく時間、いつもある一定以上の集中力の深みに辿りつけない状態は、真剣な読書を不可能にしていきます。記事ではフォークナー、ディッケンズ、ヘンリー・グリーンの文章が例にあがり、こうした段落は立ったままの通勤時などに意識を振り向けるのには難しすぎると著者は論じます。

例にあがっているのはあえてわかりにくい部分が引用されている気もしなくはないのですが、同じことはいろいろな本を読んでいて私が感じたことでもあります。

たとえばガルシア・マルケスの「族長の秋」は開幕早々に段落改行が一切ない独特な文章が45ページも連続して続きますが、この情景描写と台詞と独白が渾然としたお経のような節回しに夢中になるまでには少なくともこの最初の一節を息をとめて深い海に潜るような気持ちでとりかからないといけません。

あるいは好きでもなければとてもじゃないですが読めないヘルマン・ブロッホの「ウェルギリウスの死」などは:

ふたたび見ることができるようになった彼の眼の前に、ふたたび無はかぎりなく変容し、現在と過去の存在と化し、ふたたびかぎりなく展開して時の輪となり、無限になったこの円環を今一度閉ざそうとしていた。かぎりない天の球体、ふたたび蒼穹を形づくったかぎりない天の円蓋、無限の記憶のうちに七彩のアーチに縁どられたかぎりない世界の盾。ふたたび光と闇があり、昼と夜があり、夜々と日々があり、ふたたび無限は高さと幅と深さに応じて秩序付けられ…

とまあ、このような調子の箇所が400ページ中大半を占めています。これを途中で中断して復帰する際に、それまで文章からどのような印象をうけていたのか、どんな情報を頭の片隅にかかえて目の前の一行を読んでいたのかを保持するのは、たとえ電車から電車への乗り換え程度の時間であっても難しいのです。

変わりゆく「小説」と読み手である私たちの選択

記事では、こうした深い読みを前提とした、読者の自由な解釈や読解を必要とする19-20世紀的な小説はこれから変容せざるをえないという仮説を提示しています。

優美で詩的な度合いの高い小説や、デリケートな概念や感受性が強く反映され、文体としても複雑な作品はより細かく分断され、読み手がどこで中断してもよいように息継ぎを多くするだろう。通俗的な小説や情景描写の多い物語はいっそう繰り返しが多くなり、断定的で大げさな表現によって印象を強くして、中断のあとでも読みやすくするだろう。表現は繊細な糸のように綴られるというよりは、丈夫なケーブルのようになるはずだ。

もちろんそれが悪いとは言ってないわけですが、表現されるものの質は変わらざるを得ないわけです。

きっと次にやってくる作品、あるいはいま生まれつつある作品は章の長さもほどほどで、細かい断章によってそこで意識がいったん途切れても大丈夫にしつつ、繰り返し的な手法によって複雑なプロットを意識しやすくするのかもしれません。

もちろん、その反面として断定的で誇張した表現をもちいることで印象や強いものの解釈の広がりはない作品も多くなるのでしょう。

一方、記事では言及されていませんが、読み手である私たちにも一つの選択が必然的にやってきます。時間と集中力が分断される時代において、どんな読書をすればいいのかという問題です。

一つの態度は「読書こそ素晴らしいものなのだから、ウェブやその他のメディアを消費するのを制限してもっと深い読書を追求すべきだ!」というものです。もっともな意見である一方で、この記事の仮説が正しければそれは次第に時代遅れになってゆく可能性もあります(時代遅れが悪いとは限りませんが…)。

もう一つの態度は「この時代に合った読書しかしない!」というもので、新書がこれほど売れ、漫画のように視覚によって解釈が固定され、文体によって読者に想像力の働く余地をあまり与えないライトノベルが売れる下地を形成しているようにも思えます。

もちろんその制限のなかでも素晴らしい作品は次々に登場するわけですから、ライトノベル的だからダメというのは的はずれです。ただ、玉のような作品を探すための時間も有限なのですが。

そしてバランスのとれた態度、きっと多くの喜びをもたらしてくれるのではないかと思うのは、両方を攻めてゆくことなのではないかと私は最近考えています。

どうも最近単純な、わかりやすい喜怒哀楽、表題だけで中身が予想できる程度の読みしか味わっていないと思ったなら、思い切ってそれを逆に振ってみて、解釈の分かれる繊細で時間のかかる作品を1ヶ月ほどかけて楽しみます。そして逆に時間がない、集中力が持続しないというときには一気に吸収できる読書をどんどんこなしてゆくという二面作戦です。

この二つのあいだを揺れ動き、常に傾きつつある方向と逆に興味を振り向けることは、読書に惰性をもたらさない刺激としても有用です。

そして常に例外にも眼を光らせることです。元記事の著者も最後の一文でさりげなく触れています。

「この仮説に反する貴重な例外がきっと生まれることだろう。それを見逃すな」

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。