誰もがほとんど何も知ることなくこの世を去る。そしてそれでいい理由

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Books

世界は読むことができなかった本、見ることができなかった絵や映画、行くことができなかった場所、出会うことがなかった人、とらえそこねた好機であふれています。どんな経験豊富な人や知識人であっても、世界の99%以上は未知なのです。

この切なくも希望を感じさせる事実について、NPRに “The Sad, Beautiful Fact That We’re All Going To Miss Almost Everything” という題名のコラムが掲載されていました。

本を例にしてみよう。あなたが一週間に2冊、そして時には一週間全部を費やすペースで本を読んでいるとしたら、それでもなかなかのものだ。年100冊の本を読めたとしよう。そして仮にあなたがいま15歳だとしたら、80歳になるころまでに6500冊の本が読める計算になる。

ここで大きな簡単化をして、読む対象の本を過去250年分に限ってみよう。それはより以前の膨大な書物を無視することになるが、「読書家」であるために必要な犠牲だと考えたとする。もちろん80歳になるころには65年分の新しい本があるのだから、計315年分の本から読むべきものを選ばなくてはいけないわけだ。つまり1年当たり20冊という計算になる。一年に出版される膨大な小説、ノンフィクション、日記、哲学、歴史、エッセイから、それを選ばないといけないのだ。

コラムの著者はここで、こうした膨大さに直面して多くの人がとる行動が「culling」=「選別」と、「surrender」=「あきらめ」であると指摘します。そして「キュレーションの時代」ともてはやされるように、多くの人は「選別」に注目して「あきらめ」は一種の敗北であると感じていることにも言及します。

しかしほとんどの場合、ある審美眼で行われた「選別」も実は体の良い「あきらめ」に他ならならないのです。全てを読み、体験する時間がないとわかっているから、せめて対象とすべきものを減らしても、そのニッチにも経験不能な膨大なコンテンツが存在して私たちを圧倒します。

同じことは海外映画、ドキュメンタリー、クラシック、ファンタジー小説、ソープオペラ、ユーモア、西部劇を無視して放り出すときにもみられる。私は多くの人が特定のカテゴリで広範な作品をせっせと放り出しているのを見る。テレビは重要ではない、人気小説は重要ではない、大ヒット映画にいいものはない、ラップ音楽に言及する暇なんてない、有名人も重要ではない。そもそもなにが「重要」かなんて言わないでほしい。なぜならそれは私が見るに値するものを無視しているという意味で、それは…心地良くないからだ。それは「あきらめ」だ…というわけである。

日本における新刊書だけで年間に70000冊、CDが15000枚です。海外も含めれば、とてもじゃありませんが、一生を費やしてもその 1% にさえ目を通すことはせきません。千年生きることができたとしても、読み始めから100年分をさかのぼるのがせいぜいで、それを読んでいる千年の間に蓄積される情報にたいしてはやはり無知なままです。

情報がローカルに消費され、専門同士の交流がなく、文献も小さな図書館に収まる程度だった頃は網羅的な知識や教養への試みはそれなりに意味がありましたし可能性を含むものでした。しかしすべての情報が等価に押し寄せてくるいま、そうした審美眼は一人の人間には不可能になってしまったのです。元記事でもそれをこのように評しています:

それはきっと世界を狭めて、さばききれる程度に簡単化するという努力なのだろう。そうすることで「見逃している」という感覚を耐えやすくしているのだ。

でもこの「あきらめ」とは本当にダメなことなのでしょうか? 本当に私たちは不可能と知りつつなるべく多くの情報を貪らずにはいられないのでしょうか?

でもそれは、素晴らしいことでもある。(中略)そうでなければ、これまでに生み出された文化的な価値のすべてが、たった一人の人間が人生の間に飲み込める程度のものということになる。それは、われわれの文明が薄っぺらいということを証だてかねない。

そう、つまりこの膨大な多様性のなかから、次に出会う本が予想以上によいものであるという偶然の賜物を楽しむというのが、「正しいあきらめのしかた」というわけなのです。

人力キュレーションの限界?

この記事で指摘されていることは、「一人の信頼できる専門家」によるキュレーションがもはや本質的に無理だということでもあります。

「専門家」を専門たらしめる知識はあまりに多すぎて、「専門家」自身でさえ、自分の特定のニッチ以外については素人にならざるを得ません。このことは科学の領域では以前から叫ばれていたことが、一般化したということでもあります。

では良いもの、時代の流行を選別することは無理かというと、まったくそんなことはありません。むしろクチコミやFacebookの「いいね!」ボタンを通じて、素晴らしい本や作品は「偶然」の形をとって私たちのものに確実に届きます。偶然の重ねあわせが十分蓄積すれば、一つの流行が生まれます。

あきらめなくてはいけないのは、「全ての情報を網羅しよう」「俺がキュレーターになってみんなに良いものを届けよう」というアトラスのように世界を背負おうとする情報処理の仕方なのでしょう。

偶然の出会いを逃さないように待ち構えること、そして偶然出会ったよいものには「いいね!」を付けて次の偶然を引き起こしていくこと。それが今のネットを支えている力でもあります。

そしてついに読めなかった本や体験できなかったことについては、慎み深く語ることを避けなくていけません。「あきらめ」はちょっと心が痛みますが、あきらめてこそ、きっと次に読む本が今までで一番面白いものであることを期待して手に取ることができるのですから。

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