時間はその重みによって差別されるべきことについて

time.jpg

[日曜日のエントリーは、「幸せ探し」です。能率・自分探しの隙間に落ちている話を拾い集めています]

まじめな本も好きですが、アニメ化されるようなライトノベルも昔から大好きで、この歳になってもときおり発作的に買い集めては1冊あたり1時間くらいという超高速で読んでいます。

しかし最近の話題作の冒頭を読んだ瞬間、一つの違和感と、古い記憶がよみがえってきたのでした。

ファンの人には自明でしょうからあえてタイトルは挙げませんが、それは中世を意識した世界観で描かれているライトノベルで、その最初の数行には「山奥の村を出発して五時間」と書かれていたのでした。

五時間…? 果たしてこの主人公たちはこうした時の流れを意識していたのでしょうか?

時間は等質ではない…?

大学にいた頃、物理学科にいたくせにラテン語やヘブライ語、中世思想史と受講していた私はドイツ人の初老の先生から魅惑的な中世文化に関する講義を受けました。

その中で、先生は中世の実際のテクストを持ってきて、その文章を読み取る事で中世の人の何がわかるかを学生に推理させようと、いつも私たちに迫っていました。直接情報を教える訳ではなく、文書の読み解きから「中世の人たちの頭の中に入る」研究のプロセスを教えていたのです。

ある日、正確なテクストは忘れましたが、グレゴリオ改暦を布告し、普及を押し進める文書を先生はもってきて、私たちにそれをどう思うかと問いかけました。

それは何の変哲も無い、今で言うなら「明日からサマータイムですよ」というくらいの文書で、何の問題もないように思われました。でも先生はその文書は、絶対に中世の普通の人には理解できないのだといい、もう一つのテクストを示しました。

それは聖アウグスティヌスの「告白」十一巻の抜粋で、時間についての、ほとんど現代人には理解し難い論述が展開されている部分でした。

「中世の人はほとんどがまだアウグスティヌスと同じ時間観念の中にいたはずだ」と先生は強調しました。「彼らは時間が『過ぎ去る』というよりも『循環』している世界に閉じ込められていたといっていい」

先生はこのように述べ、たった2つのテクストを用いて、うるう日という概念の導入がどのように大変だったか、近代ヨーロッパにおいて「時間」が「距離」と同じように尺度としての地位を獲得していった過程について述べたのでした。

等質でない時間の復権

細かいところはほとんど忘れましたので、上の描写も歴史学者の目からみたらおかしいかもしれません。でも、まわりくどく回り道をしてまでも言いたかったのは、「時間がただ等質に流れすぎてゆくもの」だという概念自体が、私たちの既成概念の一つなのではないかという点です。

通勤につかう1時間は、決して家族と過ごす1時間と同質とはいえません。どんなに効率化をおしすすめ、短い時間にたくさんの仕事を詰められるよと言われても、私は家内との他愛もない会話、夕暮れ時の空を見上げてぼうっとするひととき、ノートを広げて白紙に何を書こうかと思いを巡らせる空白の時間まで捨てる気にはなれません。

時間はその重みによって差別されるべきです。1時間は1日のどこをとっても同じだと思って、重みのある部分を削減する事は、ゆくゆく巨大なものを失う事につながるのではないか。

たった一行の「五時間」の言葉から、そんなことを考えたのでした。

p.s.

冒頭のライトノベルの舞台はどうやら、こうした古代から近世に移り変わる時代だったので、登場人物が正確な時間概念をもっていたのは、あながち不自然なことではないのだということが、読み進めるうちにわかりました。うるさい読者だこと…。

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。